中山道をただ歩くだけのブログ 鴻巣宿~熊谷宿その二
少し休憩したので、重い腰を上げてまたオレは歩き出した。そうまでしてなぜ歩くのか?そこに道があるから。
日差しが弱くなってきたのでもうそんな時間なのかと時計を見たが、まだ2時ぐらいだった。だいぶ日も短くなってきたなあ。小学校はもう放課後らしく、ランドセルを背負った子供たちが仲良く並んで歩いてくる。何となく懐かしい感覚がオレを包み込んだ。オレにもあんな時代があったのだなあ。曲がり角に消えていく彼らを見送って、鴻巣宿と熊谷宿の間の吹上を目指して歩く。吹上は、熊谷宿までの間宿として発展した街だ。鴻巣~熊谷間は中山道の中で宿場同士の距離が最も長い区間で、当然間宿も必要だったのだ。オレも、今疲れている。大腿四頭筋が半ば硬直しているのがわかる。ちょくちょく屈伸運動をしたりしながら歩き続ける。
吹上駅あたりで中山道はまた高崎線と交わるはずだ。そうこうしているうちに、右のほうから電車の音が聞こえてくる。吹上に着々と近づいている証拠だ。今度は前方から白いヘルメットを着けた中学生が自転車に乗って近づいてくる。ああ、中学校も終わったんだなあ、と思っていた次の瞬間には、詰襟とセーラー服の集団に周囲を囲まれていた。今まで一人で歩いていたから、賑やかなのはいいことだ。彼らはおしゃべりをしながらお揃いのヘルメットを着け、並んで走ってくる。器用なものだ。
NTTのタワーが見えてきたので、吹上駅に着いたことを確信した。生憎タワーは工事中で覆いがかぶさっていたが。さて、オレは朝から煎餅一枚しか食べておらぬ。鴻巣で何かちゃんとしたものを食べようと思っていたが、あの店は渋いやらこの店は開いてないやらでズルズルと吹上まで何も食べずに来てしまった。もう何でもいいので何か食わせろ。蕎麦屋を見つけたのでそこに入った。
吹上宿に入る前に、中山道はほぼ直角に北に折れ曲がる。宿場町から出るときもまた大きく折れ曲がる。これは枡形という地形で、敵軍が街道に沿って攻めてきたときに宿場の中を見通せないようにするという工夫らしい。この枡形は日本中の宿場町や城下町でその名残を見ることができるようだ。これまでの宿場町で吹上が一番顕著だったように思う。オレが入った蕎麦屋も、中山道が二度折れ曲がった旧宿場町の入り口あたりにあった。『瀧乃家』という店だ。蕎麦と牛丼のセット定食を注文した。とてもうまかった。福井かどこかの『一本義』という日本酒があったので、すごく飲みたかったけど全力で自重した。いつか飲んでみたいなあ。
蕎麦屋を後にして熊谷を目指す。前述の通り、中山道はまた南に大きく折れ曲がる。この道がまたわかりにくい。慎重にマップを確認して道を曲がる。古い商店街に入ったので、どうやらこの道が正解みたいだ。続いて再び高崎線を横断する。線路の上に歩道橋が掛かっていて、そこを渡る。傾きつつある太陽がオレを照らした。
歩道橋を渡り切って、高崎線と並び歩く。少し進むと塀で囲まれた立派な家が並び立つ区域に入った。街道沿いに延々と塀が続いている。そこは静まり返っていて、オレの足音だけが響く。斜陽が辺りをオレンジ色に染め上げていて、この道が世界から隔絶されているような不思議な気分に襲われた。オレの直感は正しかった。ここ、何かおかしい。ふと、ある表札を見ると、『清水』とある。となりの家も清水じゃなかったか。よく注意して見ると、清水、清水、清水。清水ばかりである。清水会計事務所なんてのもある。ここはあの世の清水さんたちが住む区画なのではないか。一陣の風と共に木々がざわめいていた。突如として子供たちの声が響く。後方から女の子たちが笑い声をあげて駆けてくる。周囲は日々の鼓動を取り戻し、オレの失礼極まりない妄想は砕け散った。