奥美濃ぐじょのナア―紀行⑧

何駅か駅を過ぎると、一人のおばちゃんが乗ってきた。子宝温泉に行きたいらしかったが、乗務員がもう下り列車はないことを告げると、ぶつくさ文句を言いながら降りていって、その足音もすぐに雨音で聞こえなくなった。生い茂った緑に半ば埋もれた無人駅の寂しさを、雨がより引き立てていた。再び列車が動き出した。長良川に架かる橋の上を音を立てて進む。この大雨で川の水は濁っていた。ぼんやりと濁流を眺めていると、川の遠くの方に赤いものが浮かんでいるのが見えた。オレは目を疑った。それは真っ赤な細長いボートだった。台風の中、ラフティングをしている連中がいる。正気か?軽くうろたえたオレは、列車に反対側の窓からも川の様相を眺めた。するとこっちにもお揃いの黄色い服を着た連中が、黄色いボートでえっさえっさと川を下っているではないか。何?これがデフォなの?なにはともあれ、無事に終えるのを願うばかりである。

12時過ぎに梅山駅に着いた。ここが今夜の宿に一番近い駅らしい。雨はいつの間にかやんでいた。太陽は出ていないがとても明るい、真っ白な天気だった。涼しさと生暖かさの中間みたいな空気だったが、割と過ごしやすく、とても気分が良かった。チェックインはまだだが、とりあえず宿の位置を確認したい。パラットインクルンズという名前の素泊まりの宿だ。外観はとても新しそうで、周りと明らかに違うのですぐわかった。その宿の通りを挟んで向かいには、有名なうだつの上がる街並みが広がっている。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている、美濃市を代表する観光スポットだ。小京都のような風格のある街並みが広がっていて、様々な店が軒を連ねている。そして・・・酒蔵もある。

とりあえず腹が減ったので何か食べたい。しかし台風上陸を控えた今日、ほとんどの店は臨時休業の張り紙が出されている。しばらく歩いてもシャッターと張り紙ばかり。どこかしらは営業しているところがあるだろうと高を括っていたオレの気分はどんどん沈んでいった。雲行きはどんどん怪しくなり、うだつの町は暗さを増していく。雨も徐々に強くなっていった。台風上陸はわかりきっているので休業するのは賢明な判断である。しかし、朝から何も食べていないオレにとっては死活問題である。しかも宿のチェックインは16,7時だったのでまだ4時間ほどあるので休むこともできない。

しばらく歴史ある街並みをウロウロしていた。伝建地区は広く、トウキョウ育ちのオレにとっては珍しいものだったので退屈はしないが、やはり数時間こうしているとなると流石に飽きるだろうという気がする。そんなことを考えていたら、少し面白いものを見つけた。茶色いシュッとした猫の置物なのだが、何とも言えない穏やかな表情をしている。心地よさそうに目を細めた猫は台風の中でも変わらずそこに座していた。側に説明版があって、四神うだつ招き猫という四体の木彫りの猫が街のどこかに鎮座しているらしい。これはそのうちの一体、南を守護する朱雀の猫なのだという。残りの三体を見つけてツキを招き入れるというのも悪くない。ふと隣の建物を見る。そこは小さな商店のようであった。中は明かりがついていて、おいしそうなパンがずらりと並んでいる!そして入り口には張り紙がしてあった。「本日営業、焼きたてパンあります。」

オレはスピリチュアルというものをあまり信じる方ではないが、どうやらこの町の四神守護の力はホンモノらしい。オレはうれしくなって朱雀猫の方を振り返った。彼は満足げに目を細めた。その表情は「ほらな」と言っているようだった。やっと建物の中に入れたオレは安堵した。そして目の前には種類豊富なパンがある。いざ食べ物を目の前にすると一気にお腹が減ってきた。店の人が出てきて、もうすぐで焼きたてのピザトーストが出来上がるとのことなので、それまで待つことにした。結局ピザトーストとエッグ何とか(パンの上に目玉焼きが乗ってるやつ)とシナモンロールを買った。安くてうまい。それらを一瞬で平らげ、気力を回復したオレはまた街を徘徊する旅に出た。

この町には酒蔵があるらしいからそれを探そうと思う。途中で白虎猫を見つけた。くろがね色のまるっとした猫で、愛嬌と共に妙に貫録を感じさせる風体をしていた。やや開いた口もとから、今にも気さくな関西弁が聞こえてきそうである。白虎猫に手を振る。しばらく歩くと、目当ての酒屋を見つけた。他の店が軒並み休業している中で、ここだけやっている。どうやらオレにもツキが回ってきたらしい。